石牟礼道子さんと苦海浄土
石牟礼さんが亡くなってから,もう半年以上が経過しました。
このブログでも訃報があったことに触れたまま,ブログを更新することもできず,
ずっと申し訳なく思っていました。
と言っても,私は,
学生時代には水俣病に関する本を読んだり,水俣まで出掛けたりしたことはあるものの,
石牟礼さんとはお会いしたこともありません。
中学だったか高校だったかの,(確か国語の)教科書に取り上げられていた『苦海浄土』の一部を読んだぐらいで,
通読したことすらありませんでした。
で,これではいけないと,この歳になってようやく『苦海浄土 わが水俣病』を読みました。
といっても第1部だけですが……。
私が読んだのは,いつだったか古本屋で見つけて手に入れたまま本棚で眠っていた
昭和44年の1月発行の講談社版(実際に読んだのは,45年10月5日発行の第8刷)です。
裏の見返しには,当時の彼女の写真があって,芯は強そうな感じはしますが,
こう言っては失礼ですが,普通の若い女性に見えます。
また,たまたま出張先のホテルで点けたテレビで,
石牟礼さんの特集(ETV特集「わが不知火はひかり凪 石牟礼道子の遺言」)を見ましたが,
テレビに出ていた石牟礼さんは,パーキンソン病の影響もあったのだろうと思いますが,
どことなく弱々しい感じの静かなお祖母さんでした。
『苦海浄土』の中では,悲惨な水俣病の患者さん達の病状や,
彼らを取り巻く絶望的な社会状況が描かれていますが,
心の奥にあるであろう怒りを抑えながら,どちらかと言えば淡々と,
悲しみと愛情を込めながら語っているように思いました。
ところが『苦海浄土』を読んで驚いたことに,彼女は熊本大学病院などを訪ねて,
水俣病の患者さんの解剖現場などにも立ち会っているのですね。
持って行き場のない怒りと,使命感が彼女を動かしていたような気がしました。
『苦海浄土』の中に,
”まことにおくればせに,はじめてわたくしが水俣病患者を一市民として見舞った”
時の話として,以下のような記述が出てきます。
学生時代に,大学に講演に来られた原田正純さんにお会いした時,
「なぜ,そんなに真剣に水俣病に取り組むようになったのですか。どんな思いで患者さん達の支援活動を行っているのですか。」
というようなことを聞いたことがあります。
若かった私は,社会悪とか,使命感などといった勇ましい言葉を期待していたのですが,
「どうしてでしょうねえ。まあ,見てしまったからでしょうねえ。」
という肩の力の抜けた言葉が返ってきて,不思議な気分になったのを思い出します。
先の,石牟礼さんの文章からも,同じような思いを感じました。
石牟礼さんが『苦海浄土』に「わが水俣病」という副題を付けているように,
2人とも,大袈裟に使命感などという言葉は決して使わないのですが,
まさに身近な,自分の問題として,水俣病を受け取ったからこそ,
静かに痛烈に,水俣病ととことん付き合うことができたのではないかと思います。
ここ数年で,石牟礼道子さんや原田正純さんなど,水俣病を象徴する方々も亡くなってしまい,
水俣病も,どんどん風化していくような気がします。
私たちの学生時代には売られていた水俣病や公害事件を取り扱った書籍類も
多くが絶版になっており,書店では簡単には手に入りません(amazon古書などのお陰で,
買う気になれば昔よりずっと簡単に古書が手に入るのは素晴らしいことですが,
本屋さんをぶらぶらしているうちに,ふっと手に取るような可能性はなくなってしまいました)。
私自身も「都市史」という1回生向けの授業の中で,環境問題の歴史の一部として,
水俣病を初めとする日本の公害問題のことを紹介するのですが,
学生は,それらを実感を持って感じることはできなくなってきているように思います。
毎年,授業の最後には,
”環境問題の歴史や公害問題に関する本を1冊読破して感想を書かせる”
というレポート課題を出していますが,公害問題に関する本が取り上げられる割合も高くなく,
学生にとっては,遙かに遠い歴史上の話になっているように感じます。
とは言え,水俣病という不幸な歴史,どう考えても適切だったとは思えない対応をした
日本政府や自治体や企業や,また,それらを黙認した社会が,
ついほんの少し前にあったと言うことは,決して忘れてはいけないと思っています。

長い間,本棚で眠っていました

本の裏の見返し
このブログでも訃報があったことに触れたまま,ブログを更新することもできず,
ずっと申し訳なく思っていました。
と言っても,私は,
学生時代には水俣病に関する本を読んだり,水俣まで出掛けたりしたことはあるものの,
石牟礼さんとはお会いしたこともありません。
中学だったか高校だったかの,(確か国語の)教科書に取り上げられていた『苦海浄土』の一部を読んだぐらいで,
通読したことすらありませんでした。
で,これではいけないと,この歳になってようやく『苦海浄土 わが水俣病』を読みました。
といっても第1部だけですが……。
私が読んだのは,いつだったか古本屋で見つけて手に入れたまま本棚で眠っていた
昭和44年の1月発行の講談社版(実際に読んだのは,45年10月5日発行の第8刷)です。
裏の見返しには,当時の彼女の写真があって,芯は強そうな感じはしますが,
こう言っては失礼ですが,普通の若い女性に見えます。
また,たまたま出張先のホテルで点けたテレビで,
石牟礼さんの特集(ETV特集「わが不知火はひかり凪 石牟礼道子の遺言」)を見ましたが,
テレビに出ていた石牟礼さんは,パーキンソン病の影響もあったのだろうと思いますが,
どことなく弱々しい感じの静かなお祖母さんでした。
『苦海浄土』の中では,悲惨な水俣病の患者さん達の病状や,
彼らを取り巻く絶望的な社会状況が描かれていますが,
心の奥にあるであろう怒りを抑えながら,どちらかと言えば淡々と,
悲しみと愛情を込めながら語っているように思いました。
ところが『苦海浄土』を読んで驚いたことに,彼女は熊本大学病院などを訪ねて,
水俣病の患者さんの解剖現場などにも立ち会っているのですね。
持って行き場のない怒りと,使命感が彼女を動かしていたような気がしました。
『苦海浄土』の中に,
”まことにおくればせに,はじめてわたくしが水俣病患者を一市民として見舞った”
時の話として,以下のような記述が出てきます。
そのときまでわたくしは水俣川の下流のほとりに住みついているただの貧しい一主婦であり,安南,ジャワや唐,天竺をおもう詩を天にむけてつぶやいている蟹たちを相手に不知火海の干潟を眺め暮らしていれば,いささか気が重いがこの国の女性年齢に従い七,八十年の生涯を終わることができるであろうと考えていた。
この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に,耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような,魚のような瞳と流木じみた姿態と,決して往生できない魂魄は,この日から全部わたくしの中に移り住んだ。
(第3章 ゆき女きき書)
学生時代に,大学に講演に来られた原田正純さんにお会いした時,
「なぜ,そんなに真剣に水俣病に取り組むようになったのですか。どんな思いで患者さん達の支援活動を行っているのですか。」
というようなことを聞いたことがあります。
若かった私は,社会悪とか,使命感などといった勇ましい言葉を期待していたのですが,
「どうしてでしょうねえ。まあ,見てしまったからでしょうねえ。」
という肩の力の抜けた言葉が返ってきて,不思議な気分になったのを思い出します。
先の,石牟礼さんの文章からも,同じような思いを感じました。
石牟礼さんが『苦海浄土』に「わが水俣病」という副題を付けているように,
2人とも,大袈裟に使命感などという言葉は決して使わないのですが,
まさに身近な,自分の問題として,水俣病を受け取ったからこそ,
静かに痛烈に,水俣病ととことん付き合うことができたのではないかと思います。
ここ数年で,石牟礼道子さんや原田正純さんなど,水俣病を象徴する方々も亡くなってしまい,
水俣病も,どんどん風化していくような気がします。
私たちの学生時代には売られていた水俣病や公害事件を取り扱った書籍類も
多くが絶版になっており,書店では簡単には手に入りません(amazon古書などのお陰で,
買う気になれば昔よりずっと簡単に古書が手に入るのは素晴らしいことですが,
本屋さんをぶらぶらしているうちに,ふっと手に取るような可能性はなくなってしまいました)。
私自身も「都市史」という1回生向けの授業の中で,環境問題の歴史の一部として,
水俣病を初めとする日本の公害問題のことを紹介するのですが,
学生は,それらを実感を持って感じることはできなくなってきているように思います。
毎年,授業の最後には,
”環境問題の歴史や公害問題に関する本を1冊読破して感想を書かせる”
というレポート課題を出していますが,公害問題に関する本が取り上げられる割合も高くなく,
学生にとっては,遙かに遠い歴史上の話になっているように感じます。
とは言え,水俣病という不幸な歴史,どう考えても適切だったとは思えない対応をした
日本政府や自治体や企業や,また,それらを黙認した社会が,
ついほんの少し前にあったと言うことは,決して忘れてはいけないと思っています。

長い間,本棚で眠っていました

本の裏の見返し